🌸桜🌸です。
今回は、「無知なる愛」と「知識ある愛」について考えてみたいと思います。
「無知なる愛」と「知識ある愛」って何ですか?
ざっくり言えば子供を導いていくための指針です。
幼い子供を教育するにあたり、「愛」って必要なんです。
しかし、子供の人生をどこに導いていくのか…という判断を迫られ、別れ道にきた時、「無知なる愛」の道を選ぶのか、「知識ある愛」の道を選ぶのか。
その選択肢を迫られた時に必要なのか目標であり知識なんですね。
目標に関しては「発達障害児の療育(目的と手段)」に書きましたので、ご参照ください。
そもそも、私は無宗教で「愛」と言う言葉を家族が使うわけでもなく、深く考えていた訳でもありませんでした。
そのため、私の人生で我が子が障害児と判明した時、青天の霹靂でした。
そんな障害児の我が子に「愛」を傾けるなとど考えることもなく、ただ悲嘆に暮れた時期が数年間ありました。
正直、「梅子さんさえいなければ…」などと考えることも多々ありました。
そんな私が梅子さんとまともに暮らせるはずもありません。
適切な向き合い方なども分からず、いつも怒ったような顔をして梅子さんの前で過ごしていました。
梅子さんも私の方を見ることもなく、過ごしていたようでした。
後から分かったことなのですが、梅子さんは、チラチラ見ながら私を観察していたようでした。
そんな不機嫌MAXのお母さんといたら、梅子さんが表現してくるといえば、「大泣き」するくらいしかありませんでした。
そんな荒れた生活の中で、私の頭の片隅にあった言葉が何故か「鉄は熱いうちに打て」でした。
幼少期をや小学校低学年期を逃すと、のちに本当に親子で再起不能となり家庭崩壊するんだろうと感じていました。
梅子さんのことを可愛い!とは思えなくても、なぜか教育だけは与えたい…と考えるようになりました。
もしかしたら、無意識に「教育」に私が希望を持っていたのかもしれません。
療育したからといって健常児にはなれないのは理解しています。
根っこに分かりづらさを抱えているので…
しかし、重度発達障害者でも、世の中のルールを理解したら、少しは何か子供も変われるのではないか…と言う思いでいっぱいでした。
そのために毎週県外に通って、J子先生に療育の「総論」「各論」や哲学的なこと、課題学習の具体的スキル、親として、1人の女性としての生き方など、多岐にわたってたくさんの知識を学びました。
J子先生も発達障害者の親でもあり、小児科医でもあったので、私の中では、安心して話が聞ける!と言う思いで当時学んでいました。
そのような環境の中で療育の1歩を踏み出した私に教えてくださった最初の言葉は、「無知なる愛」と「知識ある愛」と言う言葉でした。
この言葉の意味を知るのに、私は非常に時間がかかりました。
「愛」のほとんど残っていない私が「愛」を知るための第一歩が梅子さんとの療育でした。
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【家庭療育】愛って?
そもそも「愛」って何ですか?
愛にはたくさんの意味がありますね。一概にこれだ!というものはありませんが、少なくとも子供の人生をよりよくしよう!という熱い思い(パッション)を伝える事が「知識ある愛」だと思います。
愛の言葉の意味を調べてみたら、以下のような解説でした。
この言葉の意味はわかりましたが、体感としては、正直いまいちでした。苦笑
でも、このつかみどころのない「愛」と言う気持ちがどうして療育に必要なのか…
そのことを知ったのは、梅子さんが私の指示を聞いてくれるようになったからではありません。
その逆で私の指示が全く通らず、大騒ぎをしてJ子先生の療育センターから帰された時でした。
この様子は、「梅子さんの小学校編 15 (問題行動 大泣き)」に書いていますので、ご参照ください。
この時、家に帰る高速道路の車内であれほどまでに後悔している梅子さんの姿を見たのは初めてでした。
そもそも重度発達障害者って、何の感情などなく、ただ無表情に淡々としているか、意味なくヘラヘラと笑っているものだと思っていました。
正直、一緒に暮らしている中で梅子さんからは、そんな異常な様子しか見たことがありませんでした。
重度発達障害の梅子さんが「落ち込む」などと言う態度をどこで覚えたのか不思議な気持ちで見ていました。
そして、帰宅後、私は梅子さんに24時間かけて、長文の書き写しを原稿用紙にしてもらいました。
この原稿用紙を書いているとき、梅子さんに私の即興の拙い絵でセッションの時の態度を2種類書いて見せました。
1つは、大泣き、大暴れする態度の様子で「❌」と書いて「泣いたら、書き写し」と書き、もう一つは、普通に座って勉強している様子の絵を書いて「◯」と書き、「外食する」と書きました。
その2種類の絵を見せながら
ここで梅子さんに私の思いをしっかり伝えたい!
もう、J子先生の前で大泣きを絶対にさせない!
と言う思いを込めて、梅子さんに「どっちがいい?どうする?」と声を荒げず低くして聞いてみたら、梅子さんは絵をみて、すぐに「◯」と書かれた絵カードをとり、私に「勉強する」といい、その絵カードを私に手渡ししてきました。
後日、書き写した原稿用紙を持って、梅子さんとJ子先生の元に行きました。
その時のセッションは、前回とは比べ物にならないくらい、最初から最後まで勉強できました。
その様子を今でも私は鮮明に覚えています。
思い出しては感動すら覚えます。
私は、梅子さんと対決することで、本当は障害者である前に、普通の感情を持つただの「人」だと言うことを知りました。
そして、この梅子さんに「伝えたい熱い思い」こそ、私流の「愛」と言う感情なのかと思いました。
もしこの「愛」が私になければ、梅子さんに適切な態度は、こうだ!などと伝えることもなく、帰宅後も梅子さんを怒っては痛めつけていたのかもしれません。
もしくは、諦めて放置していたかのどちらかでした。
この「伝えたい熱い思い」という感覚こそ、将来、梅子さんと生きていく上で非常に重要になっていきました。
その予感もしっかり的中し、何度も梅子さんが道を踏み外しそうになる時、梅子さんと対決しては、2人で超えてきました。
療育において「愛」と言うエネルギーは、絶対的に必要なものであり、ただのスキル獲得のテクニックではないということですね。
- 伝えたい思い(パッション)があるからこそ、子供に「してはいけない行動」を教えられる。
- 愛があるからこそ、子供と真剣に向き合えることができる。
- 発達障害者は、発達障害者である前に1人の感情を持った人間であること。
【家庭療育】無知って?知識って?
それじゃ「無知なる愛」って何ですか?
「罪」です。
私は、この「知識ある愛」を知る前は、「無知」そのものでした。
正直、発達障害が認知障害とも分からず、三次障害をしっかり梅子さんにつけてしまい、人前に出せれるような状態ではありませんでした。
それでも、どこか我が子可愛さを感じ、甘やかしていたところもありました。
甘やかしや放置、諦めや虐待は、将来、どのように育って欲しいのか…という目的などない状態です。
それが「無知なる愛」による罪だと思います。
子供の立場からすれば、エチケット違反、マナー違反は、親から教えてもらえなかった事柄です。
教えてもらえなかったから、大人になって社会に出すことができなくなる…
そんな負のスパイラルを生んでしまうのが「無知なる愛」なのです。
子供の将来を考えず、今だけを見つめ愛情を注ぐことが「罪」であるのなら、私はその「罪」をしっかり償って、無知なる愛から脱却したいと考えました。
まずは、梅子さんに起こっている「背景」をしり、梅子さんの「障害」と梅子さんという「人間」を知ることから始めました。
この「人間」を知ることが私には、すごく興味深く、そして、難しいことでした。(今もですが)
この「知ること=知識」こそ、どうやって身に付けていいのか、その近道は?と思った時、J子先生から「本を読みなさい」と教えていただきました。
この「本を読む」と言うことから人間という生き物を知り、それを梅子さんと私の人生に生かしていくのだと分かりました。
- 今が良ければ…、かわいそうな子供だから…、言い聞かせができないから…、暴れて手がつけられないから…、叩いて教えても無駄だから…のマインドが「無知なる愛」
- 「無知なる愛」を持って子育てしたら、社会から排斥されて外に出すことが出来なくなる。
- 「無知なる愛」からの脱却は、あらゆる本を読んで知識をつけること
- 子供の観察をすること
- 発達障害者ではなく、1人の「人間」として見つめること
【家庭療育】心を込めて
最後に、「心を込めて」という言葉を書きましたが、この言葉は、いつも私が迷いや苦しみを梅子さんに感じたときにJ子先生が心配してメールをいただいた最後の末尾の文です。
この言葉は、白血病で亡くなられた本田美奈子さんも使っていた言葉です。
「心を込めて」この意味するところの向こう側に「愛」があります。
人生の中で誰かに向けて真剣に自分の思いを伝えたい!という機会は、普通に暮らしていたら、ほとんどないか死ぬ間際くらいになってしまうのかもしれません。
それもあるかないか…というレアな機会です。
しかし、重度発達障害の人との暮らしは、このレアな機会が頻繁に、それも毎日、行われることがあります。
また、梅子さんの前では、「いい子だ!」と褒めてやったり、「ありがとう!助かった!」という言葉も毎日、何回、いうのか分からないくらい喋ります。
それも、私が心を込めて、心から発した言葉を梅子さんに向けることで、梅子さんは生き生きと社会の中で暮らしていけるようになってきました。
療育は、テクニックだけでは、絶対に上手く行きません。
どんなに崇高な障害者の学問を学んでも、「人間」という生き物を知らなければただの宝の持ち腐れです。
そんな人を梅子さんの同級生の保護者の方で見てきました。
療育をたくさん学び、専門用語もたくさん知っていて、勉強熱心な方だと会話から分かりました。
しかし、高校卒後、お子さんが暴れるので家では見れない…といって、施設に入れて休みの日も迎えに来ることもなく過ごしているようです。
その同級生の方が入所している施設の裏の土手を梅子さんと休日一緒によく歩きます。
その時、梅子さんの同級生が施設の窓からぼんやりと外を眺めているのを見つけました。
梅子さんに「◯◯君、あそこにいるよ〜!」と指差しましたが、梅子さんは、同級生に気づかず、川から吹く風を感じて、楽しそうにしていました。
対照的なその同級生と梅子さんの人生を思うとき、いくら私たち親が知識を入れてもそこに「愛」がなければ、うまくいかない…それが「療育」なんだ…と、嫌というほど思い知らされました。
最後になりましたが、J子先生は、そのような状況を一言で表して私に教えてくださったことがありました。
「愛がなければ、虚しい…」
「療育」には「愛」という目には見えないけれど、伝えたい熱い思い(パッション)を子供に届けてください。
そして、最終、どこに子供を導くのかを定めてください。
まずは、「知識ある愛」を持って、「療育」に望んでいただけたらと思います。
- 愛を持って、子供をはじめ、周りに伝えていこう。
- 相手の将来を思いながら、伝えたいことに熱い思いをこめて伝えよう。
- 伝えたい相手に対して愛がなければ、虚しい。
では!🌸桜🌸