🌸桜🌸です。
今回は、指導と支援の違いについて、梅子さんから教わったことを書いていきたいと思います。
指導と支援って違いがあるのですか?
全然、違います。
支援は、あくまでも子供の分かりづらさを援助して支えます。
指導は、わかりづらいところを、分かるように教えていくことです。
船で言えば、目的地を決め、その目的地を指し示し、導いていく…と言うことだと考えています。
支援は文字の如く、「援助して、支える。」と言う意味だと思っています。
船で言えば、目的地に辿り着くために、援助し、支える…と言うことを考えています。
「指導」と「支援」ですが、福祉の世界では「支援」がメインとなり障害者に関係する方々が動いています。
支援なしでは、最初に意気揚々と船で出港しても、目的地に辿り着くこともままならず、船自体が、目的地に辿り着けない可能性さえあります。
成人した梅子さんにとっても「支援」をいただけることは、すごく重要であり、ありがたいことだと毎日、感謝しております。
今回「指導」について書こうと思ったのは、「支援」と「指導」をごっちゃにしてしまい、支援者に「障害者に対する指導」を強く求めることで支援者と保護者の間で上手く関係がいっていないのではないかという懸念が起きたからでした。
考え方の違いもあるので、正解というのがないのは承知していますが「教育」に「支援」を求めることのおかしさと「福祉」に「指導」を求めるおかしさを感じたので書いてみようと思いました。
教育=指導
梅子さんは、幼い時から支援を受けていたのでしょうか?
梅子さんは、小学校からJ子先生のもとで「療育」と言う「指導」を受けていました。
「支援」ではありませんでした。
実年齢8歳で知能レベルは、3歳以下の梅子さん(見た目は子供、中身は赤ちゃん😓)にお金の理論を入れるのであれば、教え切る覚悟が必要でした。
課題学習で教えようものなら、大泣きの大暴れ。
人から学ぶ…と言うことさえ知らない我が娘。😰
言葉も通じないから「言い聞かせる」健常児のような技も使えません。
船で言えば、目的地も教えられず、「将来、あなたのためだから、頑張りなさい。」なんて言うこともナンセンス。笑
しかし、梅子に将来必要になるお金の概念を教えたいという思いがありました。
「タイル」でお金の概念を教えようとすることは、船で目的地(お金の理解)に向かうための行動でした。
お金の概念を入れるために「タイル」という教材を使って教える必要がありました。
梅子さんは、タイルという教材を使って「お金の理解」に10年以上かけて理解していきました。
今は、支援の方が梅子さんの仕事の報酬をタイルで一緒に貼り付けながら、いくら稼いだのかを可視化してもらい働いています。
職員さん曰く「いくらその日、稼いだのかをよく梅子さんは知っています。」とおっしゃってくださいます。
もし、ここで私が支援してくださる職員さんに「タイル算の理論を教えてください」や「学校の勉強を教えてください」と頼んだら、お金の概念を達成するのは困難だと考えています。
勉強が分かりづらい時点でそこに「脳の一次障害」「脳の二次障害」があると認識できます。
無知なる愛で支援しても、目的達成(例えば、漢字がよめて書けるように…とか、計算ができるように…とか)にまで至らないまま結果、勉強の出来ない子供と言うレッテルを貼られてしまいます。
子供は、自分に自信をなくし、生きる気力まで削ぎ落とされ、劣等感の強い人間になってしまいます。
お金の理解が進むと並行に他者からの指示も聞けるようになり、社会性が少しずつついてきました。
自分には出来るんだ!自分でも分かっていくんだ!と言う実績を積ませる経験と並行して、課題学習では「褒める」ことに尽力しながら、課題学習時間ではないときも「梅子さんは、いい子だね〜!」と顔を見ては、褒めてやることに意識して生活しています。
たまに梅子さんが反社会的行為をした場合は、指導者が叱り、損をしてもらうという「対決」姿勢をとり、お母さんの言う事は聞かなくちゃ…と言う関係を構築してきました。
このような師弟関係を「指導」と言うもとで梅子さんと築いてきました。
決して、「支援」と言う枠組みの中では、築けなかった関係でした。
そのため、梅子さんは、私の指示が1番よく通ります。😅
親子ではなく、「指導者」と「生徒」と言う関係の中で培ってきた関係です。
梅子さんが成人すぎた今でも師弟関係が続いていますので、他傷行為や自傷行為もなく、昔の大泣き+大暴れで苦しむこともなく過ごしております。
分からない時や困った時は「分かりません。教えてください。」と言う台詞を言うことで周りの方々に助けてもらっています。
福祉=支援
支援と指導を初めから分けて考えていたのですか?
全く考えていませんでした。
そのため、トラブルも多く、不満だけを抱く親だったと思います。
昔は、支援学校の先生方に梅子さんを教育してもらいたい気持ちがありました。
でも、それって、無理ゲーなんです。
支援学校の先生方は、教育委員会から配属されて支援学校に所属しているだけの先生であり、専門家ではないので難しかったのです。
いつも他者に訴えてばかりの「してもらいたい!」と言うテイカー気質だったのではないか…と反省しています。
お金の理論を支援してくださる職員さんが、梅子さんにタイルという教材を使って可視化しながら理解させてくださっています。
今は、長年、培ってきた知識を支援者の方にバトンとして渡せた気分でいます。
支援者とはあくまでも「援助して、支えてくれる」存在なんですよね。
支援と指導の二階建ての家
では、支援と指導をどう使えば良いのでしょうか?
支援と指導は「家」のようなものです。
私が梅子さんから教わったのは、発達障害の教育は、「支援と指導の2階建ての家」のようなものだと言うことでした。
- 「指導」は、基礎の部分
- 「支援」は、1階から2階の部分
基礎の部分は、指導としてしっかり向き合うことで盤石な指示の通る師弟関係を築きました。
基礎なしでは、住める家にならない…
発達障害児教育において指導なくして「支援」だけでは、成り立たない…と言うことを痛感しました。
指導の中で分かりづらさを見つけては、アプローチし、梅子さんに工夫した教材の中で少しずつの成長を続けてきました。
最終目的地に辿り着くまでの過程の力と理解した力を最大限生かしてくれる世界が「支援」なのだと思います。
J子先生が以前、このように私に教えてくださった言葉で締めくくりたいと思います。
発達障害のお子さんとの生活は、打ちひしがれることや絶望を味わうことも何度もあります。
もうこの子と一緒に暮らせない…と思うことも度々あります。
その中で救いになったのは「教育」でした。
適切な教育を子供に与えた先にあるものは、希望だと思います。
無知なる愛ではなく、知識ある愛を!
- 指導と支援は違う
- 指導は、分かりづらさのある子供に噛み砕いて分かるよう教えていくこと
- 支援は、分かりづらい子供を援助しながら支えていくこと
- 指導なくして、支援は成り立たない
- 指導により人から学ぶことができる
- 指導という基礎があって、支援が発揮される
では!🌸桜🌸